真田昌幸の代名詞である上田城は徳川氏が作った城?

   

真田昌幸の代名詞である上田城は徳川氏が作った城?

上田城と言えば、真田昌幸が築城したお城です。真田昌幸が築城した城とした今でも有名なのは大河ドラマが始める前から御承知の通り。

しかし、この上田城は真田氏が単独の力で作ったものではなく、後年上田城を攻め取るのに散々苦労する徳川氏の支援あってのものでした。

あとから考えたら城を作ったあげた真田にしっぺ返しを食らった徳川氏。では何故上田城を徳川は造営したのかを述べます。

徳川にとって未体験だった信濃統治

徳川にとっては慣れない土地であったことがまず理由です。本能寺の変の後、織田信長が支配していた信濃、甲斐、上野は混乱状態になり、各勢力が取り合う不安定な地域になります。徳川家康もこの混乱に乗じて、甲斐、及び信濃に勢力を広げました。

今までは三河、駿河、などの東海道での支配は経験にありますが、徳川氏にとって初めての甲斐、信濃の統治になります。東海道には海がありますが、信濃には当然ながら海はありません。徳川氏はあんまり山岳戦の経験もないというオマケです。

しかも北に上杉氏がいるので、北信濃での戦が想定されていたに違いありません。

上杉は北信濃での戦は豊富ですが、徳川にとっては経験のしたことのないことになります。そんな時に必要になったのが真田昌幸だったのです。昌幸はこの時、小県の諸勢力で力を発揮していて、しかも戦上手なので家康としても心強かったでしょう。場所も徳川にとっては上杉に最前線となる上田だったのでした。

あと家康は旧武田家臣の力をかなり評価していたことで知られています。真田昌幸は信玄時代から活躍していて、家康も長篠合戦、三方ヶ原合戦を主として武田家の力を実感していて、かなりの武田家臣を登用しているので昌幸もその流れでしょう。

そして真田昌幸としても城を作りたかったのです。真田氏は勢力を拡大していましたが、上杉や北条から離反したりとかなり危ない外交を展開しています。今度は徳川となってますが、いずれ独立するのに城がないのでは防衛するのも大変です。

といっても真田氏は当時金もなく規模も小さい勢力だったので、お金を投資してくれる勢力が欲しかったのです。今自分をもっとも評価してくれる、必要としてくれる徳川のもとで上田城建築を徳川氏に許可を求めます。

ここまでの話をまとめます。

 

ATTENTION
  • 徳川家康としては信濃の統治をしたことはないので、信濃現地の人々を有効活用する必要があった。
  • 対上杉の抑えとなる有力な武将が欲しかった。
  • 真田昌幸としても金や人材を投資してくれる勢力が欲しかった

Sponsered Link

築城に成功した要因

おそらく真田昌幸が単独でいきなり城なんて作ったいたら上杉氏に攻撃されて無理でしょうね。そもそも金も人も集めることも不可能だったかもしれません。

現に上杉氏は牽制のために兵を集めましたが、越後の情勢悪化のために上田城攻めは実現しませんでした。しかも真田攻めをすると後ろの徳川を相手をすることになり、迂闊に手を出せない状況になったのです。そして1583年上田城は徳川氏の対上杉の前線拠点として築城されました。

家康の後ろ盾があって初めて可能な上田城築城。しかしこの上田城で徳川氏は第1次、第2次上田城合戦でかなりの苦戦を体験するとは・・・なんともいえない歴史の皮肉を感じます。

 

 

 - 日本史, 歴史 ,