【オスマン帝国】トルコ人がアナトリア(小アジア)に来ました

      2016/06/09

【オスマン帝国】トルコ人がアナトリア(小アジア)に来ました

どうも、デコポンです。
バルカンのことを勉強していたのですが、やはりオスマン帝国のことを改めて知ろうと思いました。

バルカン、アラブ諸国を長い間統治したオスマン帝国にどうような印象を持っていますか?
オスマン帝国と言うと、トルコ人だけが支配した帝国。
トルコを拠点にバルカン半島、ウィーンを攻撃した帝国。

そういった印象を持ってしまうかもしまれませんが、実は違うのです。
オスマン帝国は多民族国家で宗教的にも寛容な国でした。
支配も自分達のやり方を押しつけのではなく、それぞれの地域の伝統を受け継ぐ、柔軟な統治が基本でした。

学校の勉強ではオスマン帝国のことはあまり扱いません。
私もオスマン帝国のことを全然知らないで、多くの勘違いをしていました。
オスマン・トルコとか言うからトルコ人が中心となる、民族国家だと考えていたものです。

では現在のアナトリアにトルコ人がいつ頃からやってきた状況から書きたいと思います。

トルコ人は11世紀頃に

地図


アナトリアは小アジアとも言います。現在のトルコ共和国がある半島を指します。
私はアナトリアと書くので、よろしね。

アナトリアはビサンティン帝国が支配していました。
住んでいた人々はギリシャ人が多かったようです。

ビサンティンが支配するアナトリアをイランのセルジューク朝が攻めます。
防衛軍としてビサンティン皇帝ロマノス4世が防衛します。
結果はイランから攻め込んできたセルジューク朝が勝利。

トルコ人の移動もセルジューク朝勝利とともに本格化します。

1077年にイランの本家から独立してルーム・セルジューク朝が自立します。
ルーム・セルジューク朝とビサンティン帝国が対峙することになるのです。

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ビザンティン帝国とルーム・セルジューク朝の交流

イスラム国家であるセルジューク朝とキリスト国家のビサンティン帝国の争いですから
さぞかし血が流れたうえでアナトリアがトルコ、イスラム化したと思ってしまうかもしれません。

しかし、実際は普通に国どうしで普通に交流していました。
例を挙げればビサンティンの家臣の中にはトルコ出身の人が存在していたようです。
ルーム・セルジューク朝に仕えて経験を持った皇帝のミカエル8世もいます。
ルーム・セルジューク朝も同様でビサンティン出身の家臣が多くいたようです。

ビサンティン帝国ではイラン風の文化が流行したこともあったのです。
イラン文化はルーム・セルジューク朝を通して、人的交流などで、
ビサンティン帝国に伝わったのでしょう。

こうした交流はなにも帝国や朝だけで限定されたことではなかったのでしょう。
他の諸勢力も亡命、婚姻などのやり取りをしていました。
敵対関係を改善するために、改宗している例もあります。

 

また軍の構成も混成が主でした。
当時のビサンティン帝国は民族的にはいい加減で、雇い兵や同盟軍のからの寄せ集め部隊が主であったのです。
むろん、その部隊にはトルコ系の部隊があったのも不思議ではありません。

ルーム・セルジューク朝もギリシャ人の捕虜からなる部隊があまりました。
また、ギリシャ語を話す部隊もあったようです。

無論ルーム・セルジューク朝とビサンティン帝国は戦争をしています。
十字軍を派遣されて、ルーム・セルジューク朝は首都を変える事態にもなることも事実です。

しかし、戦争で一方的にアナトリアをイスラム化、トルコ化をしたわけではないでしょう。
トルコ人がアナトリアに住んでいたギリシャ人を放逐したわけでもなく

長い時間をかけて、人的交流、文化交流の接触を経て、
アナトリアにトルコ人が土着したのではないでしょうかね?

 

それでは、でこぽんでした。
次はオスマンの勃興に関する話です。
どうぞ、読んでくださいね。

 

 

 

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