ムラト1世

   

 

前回はオルハンがガリポリを支配し,バルカン半島進出の基盤を作りました。その後を継いだムラト1世はバルカン半島に
大きく勢力を拡大します。

では、その詳細を書いていきたいと思います。

 

ガリポリからアドリアノープルへ

1360年代末までにはムラトが後継者としての立場を確立します。ビザンティン帝国が支配するアドリアノープル(エディルネ)攻略のために、周辺の城から攻略します。


そして1362年にビサンツ帝国の主要都市であるアドリアノープル(現:エディルネ)を支配します。
ムラト1世はこのビザンティン帝国の主要都市であるアドリアノープルを首都とします。

アドリアノープルは1453年にコンスタンティノープル(イスタンブル)を占領するまで、アナトリアのブルサと並ぶオスマン皇帝の居住地となりました。ここからバルカン各地への進軍が始まります。進軍先はブルガリア、セルビアの諸侯へ攻め込むのです。


いわばヨーロッパ征服の拠点です。

ではムラト1世がどのようにバルカンでのオスマン勢力を拡大したのでしょうか?

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間接統治⇒直接統治

ムラト1世が苛烈な支配をしたかというそれは違います。イスラム教対キリスト教の異教徒同士の争いだとどうしても壮絶なものを想像してしまいます。しかし、ムラトのバルカン進出、支配拡大は極めて慎重に行われました。

何故なら、バルカンではオスマン侯国のトルコ人よりもキリスト教徒の方がはるかに多かったからです。

力づくよりもそのままの文化、征服した人々を変わることなくキリスト教国家を滅ぼすのではなく、属国として支配しています。また婚姻や同盟も活用しています。しかも現地の人々も登用しているのです。

オスマン帝国でも以後多種多様な人材(バルカン出身の宰相とか)が現れますが、バルカン出身の人を宗教の区別に関係なく、人材を活用します。オスマンで特有の徴兵制度デヴジルメもムラト1世の頃からだと言われています。

力づくで直接支配ではなく、むしろ最初はその地域、文化、人をそのまま属国として支配します。

最終的には支配を直接支配にするのが目標でしたが直接統治をするために、支配した国を臣族化させていました。このやり方は歴代のオスマン家で見られるスタイルです。

 

 

アドリアノープルからのバルカン進出

ムラト1世はアドリアノープルを首都にした後バルカンのセルビア、ブルガリアを次々と倒しました。支配した国は滅ぼすことなく、歳貢を納めさせ、兵を提供させました。

 

ムラトの台頭に恐怖を感じたバルカン諸国(セルビア、ブルガリア、ワラキア、ボスビア)は連合軍を組み、オスマンの首都アドリアノープルに進軍します。この時の連合軍は3万以上の兵力であったがオスマン将軍の奇襲により、バルカン連合は壊滅的な打撃を受けます。

 

この戦いをマリツァの戦い(1371年)といい、この戦いの結果セルビアを服属させます。その後ブルガリアも服属させます。またビザンティン帝国のヨハネス5世も1372年頃に、臣下になりました。

 

ムラト1世暗殺される

1382年皇帝ヨハネス5世がイスラム国家の臣下になったことに反対を抱いた勢力がありました。ムラトの宗主権を否定するために、息子マヌエル2世を担いで、テッサロキで反抗しました。しかし、ムラト1世は反乱を許さず、テッサロキを4年間に及ぶ包囲の末、1387年に同地を獲得。

1389年春、セルビア人がオスマン侯国に反抗し、貢納を拒否しました。ムラトはセルビアに向けて兵を進め、セルビア、ボスニア連合軍を破りました。しかし、この戦いでムラト1世はセルビア人のミロシュ・オビリッチによって殺害されます。

ムラト1世の暗殺により、バヤズィト1世が後を継ぎます。

 

まとめ

ムラト1世の時代はバルカンへの勢力が拡大します。その支配は直接支配ではなく、間接支配から始ました。徐々に時間をかけて、支配を深めて、最終的に直接支配へと進めていました。

バルカン半島の王国もセルビア、ブルガリア、ビザンティンを従え、バルカン半島での勢力を地盤も固めたのです。

 

次は後を継いだ電光・バヤズィト1世です。

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