【真田家】真田昌幸、徳川の大軍を2度撃退した幸村の父

      2016/09/03

【真田家】真田昌幸、徳川の大軍を2度撃退した幸村の父

真田昌幸(さなだ まさゆき)は真田幸隆(さなだゆきたか)の3男で信玄・勝頼の2代に仕えた武田家の家臣です。信玄時代は近習で、勝頼時代は西上野の攻略にあたります。

武田滅亡後は真田家の基盤を固めるために大勢力の波に飲まれながら、生き残ります。織田・徳川・北条・上杉、豊臣らの力関係に左右されるのは小さい勢力だから仕方のないことです。


表裏比興の者とも言われます。

第1次、第2次上田城の戦いで、徳川軍を2度撃退します。

来歴・生涯

真田昌幸(1547~1611)は1553年に武田へ人質として出されます。幼名は源五郎です。官位は安房守で、1611年65歳で九度山で生涯を閉じます。

 

幼少期から初陣、武藤家を継ぐ

1547年(天文16年)に誕生します。出生地はよくわかっていません。幼名は源五郎で、1553年(天文22年)8月10日7歳の時、武田氏への人質となります。その後、武田信玄の近習衆(=信玄の側に仕え、信玄から色んな教訓を得る)になりました。

実名の「昌」の字は武田信玄からもらったものです。何故なら信玄の名前晴信は晴の字は将軍義晴からもらったもので、家臣に与えることができません。だから武田信玄は祖父伸昌の昌の字を昌幸に与えました。

初陣は1561年(永禄4年)では、第四次川中島の戦いと言われていますが、確かなことはわかりません。時期も定かではありませんが、信玄の母の実家、大井氏の分家である武藤氏を継ぎます。このころから武藤喜兵衛尉と名乗り、武田家の親類に家を継いだことから、信玄が昌幸の能力を買っていたではと推測されます。

1573年(元亀4年)には信玄が病死します。そして、翌年には父である幸隆も後を追うように病で亡くなります。

 

家督継承と沼田城攻略と武田滅亡

1575年(天正3年)の長篠の戦いで真田氏の家督を継いでいた長兄・信綱と次兄・昌輝が討死にします。真田家の家督を継いだ信綱、そして次男の昌輝の戦死により、昌幸は真田家の家督を相続するのです。岩櫃城(いわびつじょう)の地位も継承し、家臣の年貢を保証しています。

また信綱が戦死したことで、通字が「綱」から「幸」に変わることになります。安房守は何時ごろ自称したかわかりませんが、詳細についてはこちらのページを

綱の通字:幸綱⇒信綱
幸の通字:昌幸⇒信幸


1579年(天正7年)
、昌幸は北条氏政(ほうじょう うじまさ)の所領であった東上野の沼田領調略を始めます。
叔父・矢沢頼綱(やざわ よりつな)に沼田城を包囲させつつ、周辺の小川、名胡桃(なぐるみ)、猿ヶ京などの諸城を降伏させます。

沼田城は周辺諸城が攻略される中で孤立を深め、昌幸は城将と交渉を続け、沼田城の無血開城に成功。この功績が認められた昌幸は沼田領支配を勝頼から許されることになります。上杉と同盟しているので、対北条の前線拠点になっています。

また越後から佐竹、蘆名と外交をすることができるので、外交窓口も昌幸は担当しました。

1582年(天正10年)、織田信長・徳川家康連合軍による攻撃の前に、武田家はなすすべもなく滅亡します。

真田昌幸は織田軍が上野まで侵攻してきたので、織田軍の武将織田氏の重臣・滝川一益(たきがわ かずます)に属します。沼田城と岩櫃城は滝川一益に渡したようです。

しかし、この3カ月本能寺の変が起こります。

 

真田の地を守るために

本能寺の変により、織田家の上野での支配は弱体化します。武田家がかつて治めていた甲斐、信濃、東上野で上杉、北条、徳川が勢力争いを始めます。この旧武田領での争いを「天正壬午の乱」というのです。

まず、織田家の重臣滝川一益は、北条家の侵攻により機内へ逃亡します。(神流川の戦い)昌幸は沼田城と岩櫃城は滝川一益が逃げた時に、奪還しました。沼田城は矢沢綱頼、岩櫃城は信幸を配置し、防御を固めました。

この時昌幸は周辺の小さい勢力(国衆)などを支配化を進めます。

このあと昌幸は上杉⇒北条⇒徳川と大勢力をコロコロと相手を変えていきます。あまりにも節操なく従属先を変えますが、真田の領地を守るしかなかったのでしょう。

上杉は越後から川中島へ南下。
北条は上野から信濃へ。
徳川は甲斐から信濃へ。

 

そのころ、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)が川中島を制圧したので、昌幸は上杉氏に従属します。北条氏直は川中島で上杉と対峙しますが、甲斐にいる徳川に向かい、徳川家康は昌幸の弟・信尹を昌幸を介して、昌幸は徳川への帰属を求めます。その間に上田城も徳川の力を借りて築城。

北条の軍勢は裏切った真田家の領地に攻め込みが、昌幸は真田領を防衛しました。徳川についた昌幸は北条軍に対して、ゲリラ戦を展開し、北条氏は徳川氏と和睦をし、撤退します。

しかし、この和睦条件で家康は沼田を北条に帰すことを約束したのです。昌幸からしたら沼田城を北条家に渡すことなどできないので、これが第1次上田合戦の原因になります。

 

沼田をめぐり家康と対立

1584年(天正12年)、昌幸は領土の支配力を増すために、小県の支配を確かなものにします。禰津・屋代・丸子、室賀氏らを制圧し、昌湯の活躍により、佐久・小県郡は徳川家に帰属します。

また同時に真田の代名詞になる上田城を築き始めます。その周囲に城下町も築きます。この上田城は徳川家康が対上杉の防衛のために、かなりの資金援助をしました。まさか、自分が資金援助をした城に苦戦するとは、皮肉なのものですよね。

1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いで、家康は秀吉と和議を結び尾張から撤兵秀吉と戦う前に、家康は背後から北条家に攻められることを警戒して、和議を申し出ました。そして家康は氏直から和議の条件である沼田城のことを強く求めれるのです。

家康は昌幸に沼田城を再度北条氏に渡すことを要請しますが、昌幸は拒否します。交渉は決裂し、昌幸は徳川、北条家を敵に回すことになるのです。

徳川、北条を敵になったならば、今度は上杉に味方になってもらうしかありません。上杉に帰属をする時に、次男の幸村を人質として送り出し、徳川との決戦に備えます。昌幸は上田城での徴兵の時に、農民まで徴兵しています。

まさに自らの運命を賭けたのでしょうね。

真田昌幸の離反を知った家康は激怒し、上田城を攻撃し、その徳川の将には、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉などがいました。

真田領の制圧を狙った家康は約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、沼田領は北条氏邦(ほうじょう うじくに)を沼田城に侵攻しましたが、昌幸はわずか2000の兵力で徳川軍に圧勝します(第一次上田合戦)。北条軍の攻撃も撃退しました。

天正同年、次男・幸村は景勝の人質から、豊臣秀吉の人質として大坂に預けれます。昌幸は上杉景勝を介して、豊臣氏に臣従する道を選びました。中央で大きな勢力を発揮する秀吉に臣従することで昌幸は立場を保証されたことになります。

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豊臣秀吉に臣従

1586年(天正14年)、北条と徳川の真田攻めが続くなか、家康が秀吉に出仕することになります。これにより真田攻めは中止となり、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となります。

1587年(天正15年)、昌幸は駿府を訪ね家康と会見し、その後大坂で秀吉と謁見、名実ともに豊臣家臣となります。

1589年(天正17年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われます。沼田城を含む利根郡が北条氏に、名胡桃城を含む吾妻郡を昌幸に与えます。

ところが、北条氏家臣の猪俣邦憲(いのまた くにのり)が名胡桃城を攻め、沼田城代の鈴木重則が死んでしまいます。これが惣無事令違反とみなされ、秀吉は主だった大名に北条氏征討の指示を出し、小田原出兵を実行に移します。

真田昌幸もこの秀吉の命令に従い、上野へ攻め込みました。豊臣秀吉の圧倒的な軍勢で北条氏は次々と城を落とされます。北条氏は本拠である小田原城で降伏し、北条家は滅亡しました。
この後、秀吉は東北の大名も攻略し、天下統一がなります。

 

北条氏滅亡後、昌幸は秀吉から旧領を安堵されるのです。沼田領は嫡男・信之に与えられ、信之は家康配下の大名として父である昌幸の上田領とは別の徳川与力大名として独立することになります。

 

家康と再対立

1598年(慶長3年)、秀吉が病没し、死後の豊臣政権においては家康が天下統一に乗り出します。自ら天下人になろうする家康と、阻止しようとする石田三成らとの対立が表面化します。

昌幸と幸村は西軍に、信之は東軍につきます。ここで注意したいのは信之が東軍についたことは昌幸の指示ではありません。
信之は徳川氏の大名で、本多忠勝の娘をもらっているから、徳川に味方することを自らの意思で決断しました。幸村は大谷吉継の娘をもらっているので、西軍に。

 

 

1600年(慶長5年)昌幸、幸村は軍勢を率いて上田城に戻り、籠城の準備を整えます。徳川秀忠率いる大軍は江戸から中山道を下り、上田城攻略を目指します。ちみなに真田氏の周りの大名はほとんど東軍です。

昌幸はわずか2,000の兵力で篭城して迎え撃ちます。第二次上田合戦の始まりです。

秀忠はまず、信之と本多忠政を使者にして昌幸の降伏を勧告します。昌幸はあいまいな返事を繰り返し、時間を稼いで、城を明け渡すことはできないと秀忠に告げます。

秀忠軍を城攻めに集中させる手をとります。昌幸は徹底した籠城策を取り、川を決壊、伏兵を用いて、戦の経験が浅い秀忠を翻弄します。

秀忠は上田城の攻略を諦め、関ヶ原に向うも間に合うことは出来ませんでした。徳川軍を再び撃退した真田昌幸ですが、関ヶ原で三成の西軍が敗北します。大局は決したので、昌幸は徳川に降伏せざるを得ませんでした。

家康は上田領没収とし、昌幸、幸村親子を死罪と決めます。しかし、信之の助命嘆願もあり、昌幸、幸村親子は九度山への蟄居となりました。

九度山での暮らしは貧乏なもので信之に資金援助を求めています。1611年(慶長16年)、九度山で66歳の生涯を閉じます。

 

それでは、でこぽんでした。

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