【真田家】真田幸隆(幸綱)は真田中興の祖

      2016/06/09

【真田家】真田幸隆(幸綱)は真田中興の祖

どうも、でこぽんです。
前から真田家に興味を持ったいたので、マイペースに記事を更新します。
真田家は真田幸隆(さなだゆきたか)から始まります。

それ以前の真田家はまだわかっていないらしいです。
それでは、真田昌幸(さなだまさゆき)の父、真田幸隆について語ります。

真田幸隆は真田の祖です。
信玄の家臣時代に次々と武功をたてました。
特に村上義清(むらかみよしきよ)の砥石城(といしじょう)を攻略したことが有名です。

攻め弾正(せめだんじょう)という別名どおり、城攻め、調略を得意としました。
調略と城攻めを得意とし、知力だけなら武田信玄(たけだしんげん)を凌ぐと言われます。

 

 

来歴・生涯と名前

1513年(永正10年)、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱(うんのむねつな)の
娘婿真田頼昌(さなだよりまさ)の子として誕生しました。

出自については海野氏の嫡流であることを江戸時代の真田家が強調しています。
しかし、海野氏の嫡流ではないのが一般的です。
何故、創作したかは真田家の箔付けでしょう。

1562年(永禄5年)頃までは幸綱と名乗り、晩年に幸隆とした説もあります。
「綱」の字は海野氏の海野棟綱の「綱」の字をもらったのでしょう。

名前も幸隆「ゆきたか」ではなく「こうりゅう」ではないかという説も。
ただ、私は幸隆の方で統一します。

 

武田信玄に旧領回復を賭ける

真田幸隆が信濃国に誕生し、元服したころは真田の土地は守勢に立たされていました。
村上義清、武田信虎(たけだのぶとら)が小県に侵攻します。

1541年(天文10年)には、甲斐・武田信虎(たけだ のぶとら)と村上義清が信濃にいる海野氏を攻撃します。
この合戦を「海野平合戦(うんのだいらかっせん)」と言います。
この戦により、真田幸隆は真田の地を離れるしかありませんでした。

 

真田幸隆は武田氏と敵対する上杉氏側の長野業政(ながの なりまさ)を頼り、上野(こうずけ)へと逃亡します。
上野は現在の群馬県です。
幸隆の小県真田領は村上義清のものとなります。

一方、武田氏では、信虎が嫡男の武田晴信(たけだ はるのぶ、後の信玄)により駿河へ追放されます。
このクーデターで晴信が武田の君主になります。

上杉氏側の業政に世話になった幸隆でしたが、その暮らしがかなり困窮していたようです。
僧侶に衣服を恵まれたとの話もあります。
貧乏を我慢する牢人真田幸隆の思いはただひとつ旧領小県真田の取り戻しです。

この後真田幸隆家督を継いだ武田信玄(当時は晴信)に仕えることになります。
しかし、真田幸隆が何故武田家に仕えたのはよくわかりません。

村上義清のことを恨んだのか
武田信玄の将来性に賭けたのか

諸説ありますが、私は旧領を支配している村上義清を打倒するために
武田信玄に仕えたのではないかと思います。

真田幸隆は村上氏攻略の先方として戦います。
村上氏の支配する土地は真田幸隆にとっては地元です。
地元なら土地の案内、偵察、コネを活かした情報収集、調略を担当しました。

 

悲願の旧領回復

1548年(天文17年)に武田信玄と村上義清は戦をします。両軍は上田原で激突します。(上田原合戦)
武田軍は敗れ、有力家臣である板垣信方などが戦死しました。

1550年(天文19年)、信玄は上田原での敗北から立て直しに成功し、再度村上義清を攻め立てます。
砥石城を攻めるのですが、ここで武田軍は惨敗しました。(砥石城の戦い)

幸隆の調略は徐々に効果を挙げていたらしいという話ですが、戦を左右するほどではなかったようです。
それにしても、村上義清は風林火山で有名な武田信玄を2回大敗させました。
翌1551年(天文20年)、幸隆の調略によって、武田軍が大敗北した砥石城をわずか1日で奪取します。
どうやって幸隆が砥石城を落としたのかは未だに謎です。

城に潜んだ内応者を使い、城を乗っ取ったと言われていますが、よくわかりません。

この幸隆の手柄により、信玄から領地を与えられ砥石城の城主となります。
旧領復帰の悲願を果たした真田幸隆は対上杉謙信、西上野の先方として活躍することになるのです。

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対上杉、西上野攻略

1553年(天文22年)、武田信玄と上杉謙信との間で、北信濃の支配権を巡る戦いが開始されました。
有名な川中島の戦いです。

この川中島の戦いは1564年(永禄7年)までの12年間に5回を両軍が出陣していました。
幸隆は毎回武田軍の武将として出陣し、活躍が記録されています。
また、その間の1556年(弘治2年)には謙信方の城、天飾城(あまがざりじょう)を攻略しました。

小山田昌行とともに城番を務めていました。
また、来るべき戦に備えて海津城の普請にも関与したでしょう。

1559年(永禄2年)には晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号しました。
1561年第4次川中島に戦いにも参加したようです。

川中島の戦いで謙信に完璧な勝利は出来なかった信玄。
しかし、その後も武田家は着々と勢力を拡大化させます

真田幸隆は以前身を寄せていた西上野の攻略も担当します。
1563年(永禄6年)に上杉方の斎藤氏の居城・岩櫃城、1565年(永禄8年)には獄山城、1567年(永禄10年)には白井城を攻略。
現地指揮官として活躍します。

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信玄を追うように幸隆の死

しかし、この頃から病気がちになったようで永禄同年、幸隆は病気のために家督を嫡男・信綱に譲ります。
信玄の駿河侵攻、三方ヶ原合戦に参加することはなかったようです。
対上杉、北条のための防備を固めていたのでしょうか?
信濃北部・上州方面の抑えとして活動することになります。

信玄は三方ヶ原の戦いで勝利するも、後に1573年(天正元年)53歳で死去しました。
後を追うように翌1574年(天正2年)に幸隆も砥石城で62歳で亡くなりました。

墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長谷寺。肖像は長野県長野市松代町の長国寺所蔵。

 

 

真田幸隆の年表(主な出来事)

  • 1513年(永正10年)真田幸隆誕生。
  • 1541年(天文10年)海野平合戦で真田郷を失う。 同年、武田家では武田信虎が追放。信玄が家督を継ぐ
  • 1546年(天文15年)武田信玄に臣従
  • 1548年(天文17年)上田原合戦。武田軍、村上義清に敗北。
  • 1550年(天文19年)砥石崩れ。このとき武田軍は北信濃の村上義清に大敗。
  • 1551年(天文20年)砥石城を攻略して。
  • 1553年(天文22年)第1次川中島合戦。
  • 1556年(弘治2年) 天飾城攻略
  • 1559年(永禄2年) 幸隆出家(一徳斎と号す)
  • 1561年(永禄4年) 第四次川中島の戦いに参戦。
  • 1563年(永禄6年) 上野・岩櫃城を攻略。
  • 1567年(元亀元年) 長男・信綱に家督を譲る。
  • 1573年(天正元年) 信玄死去
  • 1574年(天正2年) 幸隆死去。

それでは、でこぽんでした。

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