【オスマン帝国】バヤズィト1世~稲妻と呼ばれたスルタンの栄光と挫折~

      2016/07/15

【オスマン帝国】バヤズィト1世~稲妻と称されたスルタンの栄光と挫折~

今回は「稲妻」「雷帝」と称されたバヤズィト1世についてです。バヤズィトは急速な勢力拡大、直接支配を進めつつコンスタンティノープルを包囲しました。ビザンティン帝国の援軍に駆け付けた十字軍をニコポリスで撃破。

コンスタンティノープルを陥落寸前まで追い込みますが、ティムールが中央アジアから遠征しアンカラで戦うも、敗北。しかもバヤズィト1世は捕虜になってしまい、オスマン帝国は勢力を大幅に後退しました。

突然の即位、兄弟殺し

父ムラト1世がコソヴォの戦いで暗殺されたので、バヤズィトが急遽スルタンになりました。父と同行していた兄弟達を殺害します。兄弟殺しはスルタンの位を確かなものにするために、これ以後スルタン即位時の兄弟殺しが常に行われます。

急速な勢力拡大

バヤズィトは稲妻と称された人で、素早い遠征を実行しました。アナトリアに遠征し、アナトリア東南部勢力のサルハン、アイドゥン、メンテシェなどの諸侯国を制圧しています。またブリガリアに侵攻し、首都ヤルノヴォを制圧し直接支配化に取りこまれました。

1394年コンスタンティノープルを包囲。コンスタンティノープルの包囲は力攻めではなく、兵糧攻めでした。またトルコ人は出自が遊牧民で水軍に関しては苦手であったが、この頃になると小艦隊を動員できるようになり、物資を届けるヴェネチィアやジェノヴァの船を従来よりも確実に減らしました。

バヤズィトの包囲は効果を表して、コンスタンティノープルの物価は上昇、伝染病が蔓延し、守備兵の士気は大いに下がらせたました。包囲を打開するべくビザンティンの皇帝マヌエル2世が西ヨーロッパに援軍を要求してハンガリー、フランスを中心とする十字軍が結成されます。しかしバヤズィトは1396年ニコポリスで十字軍を撃退させ、ヨーロッパ諸国に衝撃を与えるのです。

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東への勢力拡張

バヤズィトは東西ローマの不和を承知しており、十字軍にそこまで恐怖を感じていませんでした。何故、オスマン帝国に包囲されているビザンティン帝国を救わないのかは西ヨーロッパの不統一、東西教会の分裂、ロシアの状況が原因です。

コンスタンティノープルの包囲作戦と並行する形でアナトリアへ軍勢を進めます。カラマン侯国、シヴァスを中心とする侯国を併合するのです。しかし、オスマン勢力の拡大により旧アナトリアの諸国は東から拡大するティムール朝に庇護を求めます。

 

そしてティムールとスルタンが戦うアンカラの戦いが1402年に起きました。コンスタンティノープルからの包囲戦からの戦いとなったオスマン側は準備が徹底されておらず、総崩れとなりバヤズィト1世は捕虜となり、翌年亡くなってしまいます。

アンカラの戦いで何故オスマンが負けたのかは相次ぐ連戦でオスマン軍の士気が低かったこと。旧アナトリアの諸侯国のを全面に出して、オスマン軍の軍勢が動揺したことが主に挙げられます。

オスマン勢力の分裂

バヤズィトがアンカラの戦いで敗北した後、バカルン、アナトリアにいた後継者争いが起きます。オスマン家の再びの拡大を望まぬ周辺諸国の干渉の結果、バヤズィト1世の息子達が勢力争いを繰り広げることになるのです。

一体どの息子が勢力を拡大するのでしょうか?それでは、でこぽんでした。

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